迷い子の路
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男は左足を引き摺っていた。雨の降る路地を、男は使い物にならなくなった左足を引き摺って、壁に手をつけつつ歩いていた。道路に溜まった水の跳ねる音。そして男が左足を引き摺る音。雨が道路を打つ音。夜の商店街ではそんな音だけが響き、他に人の声も車の音もしなかった。
市警の見回りルートからも外れているような路地で、男はとうとう座り込んだ。丁度商店街の店と店の間。目の前には裏口のような扉がある。男は雨の中、懐から拳銃を取り出すと弾の確認をした。あと二発残っている。面倒なことになったら、あと二人、いや男の腕ならばもう少し殺すことができるだろう。それで十分だ。左足以外の負傷はなく、ただ故障して重くなった機械義足に、男は嘆息を漏らした。
仕事は完了していた。男の撃った弾は目標へ向かって一直線に飛んでいき、目標を違えることなく完璧な角度で命中した。もちろん目標は何が起きたのか知覚する間もなく死んだ。だが皮肉なことに、男の撃った銃弾に貫かれた目標の体が最後に痙攣したとき、偶然にもその手にかかっていた銃の引き金が引かれた。そしてその弾は直接男に当たることはなかったものの、思わぬ跳弾をみせて男の膝裏に命中したのだ。そして偶然とは重なるもので、他の部分であれば歩行に問題がなかったはずの見事な義足は膝裏の、唯一の弱点とも呼べる部品だけを傷つけた。そのおかげで義足を動かすための筋電が膝から下に通わなくなってしまったのだ。
男は家の壁に背を預け、拳銃を片手に持ったまま煙草を取り出した。降りしきる雨の中、男は細長い煙草を咥えてライターで火をつける。雨に邪魔されて、一回では煙草に火がつかなかった。二回目にようやく火がついて、男は煙を肺にいっぱい吸い込んだ。そして吐き出すと、流石に雨が強すぎて点けたばかりの煙草の火は煙を出して消えてしまった。男はその場に煙草を捨てた。そしてもう一本吸おうと手を動かした時、向かいの建物の中から物音がして、男は意識することなく手にしていた銃口をゆっくりと開く裏口に向けていた。
男は背後にある壁を使って立ち上がった。そして扉の奥から現れた小柄な人間の額に拳銃を突きつける。相手は突然額につけられた金属が何であるか、よく分かっていない様子で大きな目を瞬きさせた。紺色の着物に、透けるような白い肌。額に突きつけられた拳銃を、大きな瞳を寄せて見つけると、拳銃ならば何の問題もないとでもいう風にその存在を無視して男に向かって微笑んだ。
「……いらっしゃいませ」
鈴の音のように響く声は、雨音とは別の次元のもののようだった。造られた美が男の目の前にあった。人にあらざる美。顔の中心にある鼻を挟んで瞳は完璧に左右対称の位置にあり、その大きさだけでなく瞼の開く具合まで同じだった。しかし人形だとてこれほど正確に左右対称の顔を持つことはできないだろう。人形はあくまで完璧ではない人間が造ったものなのだから。
だからこの美は人工物であるが故とは言えない。人の知の及ばぬところで、偶然造り出された完全な美だ。造りだした人が畏れ、嫌悪するほどの無機質なモノ。しかし今も昔も、それが男の心を動かすことができる唯一の美だった。
「俺が何かの客に見えるのか?」
男は内心で動揺しながら、それを声には微塵も感じさせなかった。体にも、男の動揺は一切現れていない。男は感情と肉体を切り離す術を知っていた。そしてその能力をフルに使ったのはこれが初めてのことだろう。これまで、これ以上に感情を揺り動かされたことは一度しかない。
けれど男が動揺していようが、それを見せないように努めようが、どこか思考回路が壊れたような人工物には全く意味のないことだったようだ。それは美しい唇の両端を同じ角度だけ引き上げて、男に微笑みかけた。
「えぇ。うちに来る方は皆、何かを探していらっしゃる方ばかりですから。すぐに分かります」
奇妙なことをさも当然のことのように言ってくれる。男は内心で苦笑したが、それも表情には一切表れることはなかった。確かに、男は探しものをしていた。もう十五年経つだろうか。男が炎の海にしたあの施設から無事逃げ出した籠の鳥を。あの鳥に白く馬鹿でかい施設は似合わなかった。けれど、籠の中から出て野放しにしてもいい鳥ではない。だから男はその鳥を探していた。今度は自分の作った籠に閉じ込めるために。
その鳥は美しかった。壊すということ以外に囚われることのない男が、手にいれて決して壊したくないと思うほどに。そう、偶然できあがった成長する美は確かに目の前にいる青年と同じ瞳をしていた。
「何の店だ、ここは」
男が尋ねると、青年はくるりと身を翻した。動くと撃たれる、とは万が一にも思っていないらしい。身を翻すと背に回された帯が羽のように揺れた。
「中へどうぞ」
そう言うと、青年は男の許可も得ずに家の中へ入っていった。男は降りしきる雨にも飽きた様子で、手に拳銃を構えたまま青年の後について建物の中へと入っていった。
入るとすぐに右手に折れる薄暗い廊下が伸びていた。その廊下にしたがって右に折れると、右手側は壁、そして左手側には壁も扉もない畳の部屋が一段上がって作られていた。男がその部屋をちらりと横目で確認すると、畳の間には古ぼけた箪笥と同じように古ぼけた長持ちがひとつあるだけだった。他に人の気配はしない。
妖しく揺れる帯の後に続いてさらに奥へと進むと、畳の間の隣には二階へ上がるための狭い階段があった。それは途中に踊り場を挟んで折れ曲がっていて、どの程度まで上に伸びているのか判断できない形のものだった。帯はその階段の脇を通り抜けて、後ろに拳銃を構えている男がいることをなんら意識していない様子でさらに奥へと進んだ。
そこでようやく開けた場所へ出た。柔らかな色合いのライトが照らす場所は、どうやら二階までの吹き抜けになっているらしく天井が高い。入ってすぐ右手には喫茶店のカウンターらしきものが見受けられる。前面はガラス張りの窓で、そこから見ると外はまだ土砂降りの雨だった。
「お座りください」
カウンターを回りこんで客席側の丸い、高い椅子を青年が勧める。男は用心深く店内を見回した。どうやら本当に喫茶店のようだ。カウンターの奥には流し台と、壁に備え付けられた飾り棚がある。棚の中には様々な色合いのカップとソーサーが揃いで飾られている。喫茶店は店の半分だけで、もう半分には別の低いカウンターが伸びていた。窓際には客席ではなくピアノが置かれている。カウンターとピアノの間には上へと伸びる螺旋階段があった。やはり他に人の気配はしない。この店は二十歳になるかならないかというくらいに見える青年のものなのだろう。それか、青年に店番を頼んで主人は出かけてしまったのだ。
「俺の探しものがここにあると? 見たところカップとソーサーくらいしかなさそうだがな」
男が言うと、青年はにこりと微笑んで真面目に頷いた。
「喫茶店ですから」
今時こんな路地奥で喫茶店稼業など儲かりはしないだろう。そう考えた男の頭の中でも見たのか、青年は続けてこう言った。
「あと修理屋もしています。その足、応急処置程度ならできますが、どうなさいます?」
よりにもよって修理屋とは。冗談のような話だが、どうやら本当らしい。
「これは機械義足といっても、他とはわけが違う。だが、直せるというなら直してもらおうか?」
男は尊大な態度でカウンター席に座り、故障した義足を腕で持ち上げてどかりと人の座っていない椅子の上においた。
「畏まりました」
そう言って優雅に頭を下げると、美の結晶のような青年は一度螺旋階段の奥へと消えていった。しばらくして彼は、その着物とは不釣合いな工具一式を持って男の元へ戻ってくると、無遠慮に椅子の上に置かれている義足の傍らにしゃがみ込んだ。そして故障箇所である膝裏を覗き込むようにして首を傾げる。その頭の数十ミリ近くには、男が容赦なく構えているごつい銃口があった。
最初から拳銃には頓着していない青年は、弾が当たって破けた服の穴の奥を指で確かめるように触った。そして首をさらに肩のほうへと傾ける。どうやらよく見えないようだ。
「服を膝まで巻くっても構いませんか?」
青年は顔を上げて男に問うた。そうすると丁度つんと尖った鼻先に銃口がくるのだが、青年は何も感じないらしい。まともな感情があるとはとても思えない。
「……銃を突きつけられたままで、よく平然と義足の修理ができるな。ここには他にも俺のような客が来るのか?」
「いいえ、銃を持っていらっしゃったお客様は初めてです」
笑顔を崩さず青年はそう答えた。そしてもう一度服を巻くっても構わないか、と男に尋ねる。男は鷹揚に頷いて見せた。そしてそれまでずっと構えていた拳銃を、指でくるりと下へ向けてそのまま上着に隠れたホルダーにしまった。この相手では脅しにもならないと判断した結果だ。実際、脅しにはならなかったのだから男の判断は賢明だったのだろう。
青年は銃がしまわれようがそのまま突きつけられていようが全くかまわなかったのだろう。ただ男が故障箇所を見せるために譲歩してくれたことにだけ関心があったようだ。許可を得て早速、濡れた男の服を膝まで捲くると、それからまたその場に屈んだ。剥き出しになった機会義足のメタリックな輝きを存分に眺め、そして曲げた指で軽く金属を叩く。指の骨と金属が当たって、木琴のように音をたてた。その音を聞き、青年はうっとりとした溜息を漏らした。
「……これは素晴らしい。確かに私の手には負えない義足です。材料からして特殊なもののようですね」
青年のほうこそ、ただの修理屋にしては機械屋が十数年の歳月をかけて開発した、一見して特殊には見えない特殊な金属を見抜くほどの特異な能力を有しているではないか。そしてさらにはこんな言葉を平然と吐いてみせる。
「でもありあわせのもので応急処置はできそうです。このままでは歩きづらいでしょうから、お直ししますね」
機械屋が聞いていたら憤慨しただろう。この義足は彼女の最高傑作だ――と本人が言っていた――。手を入れることができるのも、修理するのも彼女だけの領域なのだ。けれどそれを青年は応急処置とはいえ、一時的にでも直してみせるというのだから。
修理屋を自称する青年は、持ってきた工具の中からありきたりのドライバーやレンチを取り出しては、義足の膝裏を熱心にいじくり回した。男は着物姿に機械工具を持つ美貌の青年を見下ろしつつ、しばらく手持ち無沙汰の状態だった。だがものの数分で青年は立ち上がり、男の手持ち無沙汰の状態を解消する。
「さ、これでしばらくはもちます。でもなるべく早く正規の場所でメンテナンスをして下さいね」
男は疑心暗鬼になりながらも、椅子の上にあげていた義足を床に下ろす。今までは膝上の筋電に全く反応せず、義足はただの金属の塊になっていたが、修理のおかげか筋電が膝下の義足まで及ぶようになっていた。試してみると膝を曲げることもできる。男がそうして義足の状態を確認しているうちに、青年は喫茶店のカウンターを回りこみ、後ろの棚から使用していないタオルを取り出しだ。そして男が義足の状態に満足するのを見計らってタオルを差し出す。どうやら物騒な拳銃を持ってくる客はいなくても、雨に濡れてやってくる客は過去に例があるらしい。
「……いつからここで仕事をしている?」
タオルを受け取って、今更ながらに男は顔を拭いた。服が濡れていたために、座っていた椅子も、椅子の下の床も水が溜まってしまっていた。
「祖父が亡くなってから、まだ半年ほどしか経っておりません」
湿った服はタオルで拭いたくらいでどうにかなるものではない。男は諦めて、タオルを頭に被った。黒い髪の毛をかき混ぜるようにして水気を払う。そして青年の答えに眉を顰めた。
「祖父?」
「はい」
男はしばらく沈黙した。この傑作の人工物が人の生殖能力を持って正当に生まれた人間だとするのなら、生んだ母親は天使を生んだと狂喜しただろう。祖父がいるということは父もいて、母もいるはず。だが目の前の青年に限って、そんな不自然なことがあるだろうか。
「この家で生まれ育ったのか?」
その問いを向けると、青年は一瞬だけ視線をさ迷わせた。本当に一瞬だけ曇った瞳は、まるで別世界を見ているような印象を男に与えた。そして青年はすぐに瞳の輝きを取り戻してさらりと答える。
「いいえ。多分……別の場所で」
「多分……ね」
奇妙な言葉だ。そしてそれを意識せずに使っている青年はもっと奇妙だった。男は乱暴に髪を拭っていた手を止めて、タオルを青年につき返した。
「そういえば、お客様は何をお探しですか? おっしゃってくだされば、探しておきますが?」
男が返すタオルを両手で受け取りながら、青年はそう尋ねた。男はまだ何かを探している、とは言っていないのだが、青年はそれを無視するつもりらしい。男は青年の大きな瞳を見つめた。すべて映しているようで、どこかここにはない意識を感じる瞳。男は随分素直に青年の問いに答えた。
「人だ」
「人?」
ことん、と螺子の外れた機械のように青年は首を右に傾げた。
「人を探している」
男はもう一度言った。それは果たして本当に人と呼んでいい存在なのかは謎だけれど、人の形をしていることは間違いない。
「女性ですか?」
青年が首を傾げたままそう尋ねた。男は目の前にいる、一目では男性とも女性ともつかない相手を眺めつつ口の端を引き上げて笑った。
「……どうかな。どちらにせよ、あんたが探すものじゃあない。俺が見つける。……いや、俺以外には見つけられない。特別な人間なんでね」
鳥篭から逃げた美しい鳥。あれはきっと人の目を恐れて――いや、人の目を煩わしく感じて――隠れているだろう。それを見つけることができるのは男だけだ。その一声で世界を滅ぼすことのできる能力を持った鳥。男だけがその影響を受けることがない。だから、その鳥を捕まえることができるのは男だけだ。
「お力になれなくて残念です」
逃げ出した鳥はそう鳴いた。男はまだ誰にも見せたことのない、蕩けるような笑みを見せてその鳴き声に応えた。
「……そうでもなさそうだがな」
偶然が男をこの店に連れてきたのだとしたら、それはもう偶然ではなく運命だと言えるだろう。鳥篭を壊したのは男。そして鳥を逃がしたのは男。それならば、その鳥を捕まえるのはやはり男でなくてはいけない。そういう運命を、男はこの雨の日に感じた。
そして多分、この運命に最初に迷い込んだのはこの鳥の方だった。